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2024/02/10 どこの世界もマネジメントは大変だ

地上波が少ないことも悲しい

2024年冬、「歴代最強」の呼び声が高かったものの、サッカー日本代表は、ベスト8でイラン代表に敗北してアジアカップを終えることになった。非常に残念である。

その原因は、様々な考察・激論が交わされているが、某選手から、チーム全体の決まりごとが少なすぎてパンクした、もっと(監督に)決めて欲しいという趣旨の見解が出たことが印象的である。いわば監督批判ともいえ、穏やかではない(ただし、こういった見解はかなり前から複数選手から出ていた)。

確かに、イラン戦だけを見ても、後半は一方的に押し込まれ、日本はボールの出しどころがなく、一方、イランからは明らかにロングボールでDFを狙われ、防戦一方の惨状であった。もっとも、森保監督は、DF陣には特に手を入れず、起点となっていたFW陣の選手を交代する采配であり、素人目に見ても、疑問が残る展開であったことは否めない。

そうなってくると、監督交代論が出てくるのが世の常である。森保監督は、これまでのコメントを見る限り、フォーメーションのほか、基本的なコンセプトは決めるが、細かい展開などは選手に任せる方向性を持っているようであり、メディアでは、「ボトムアップ型」と称されている(それが正しい評価なのかについても激論が交わされている)。

選手からの意見を踏まえると、「ボトムアップ型」といっても、「コンセプトが上手く機能せず、苦しくなった場合の戦術・決まりごとを決めてよ」ということなのだろう。

森保監督の意図は定かではない。もしかすると、選手に硬直的なルールを授けても、苦しい時には機能しないばかりか、逆にその場面に適した動きができなくなるので、選手の自主性を尊重して、臨機応変に戦えるチームにしたいということなのかもしれない。

 

歴史的には、極めて大雑把にみると、守備固めのサッカー、つまりルールサッカーで一定の成果を上げる(2010年頃)⇒レベルが上がってきた選手が、それには限界があるとして自主的なパスサッカーを目指すも、それが上手くいかなくなる(先代ボトムアップ型の失敗)⇒外国人監督によって、ルールサッカーを強いられたが、それが破綻する(ルール型の失敗)⇒日本人監督によって、選手主導の「ボトムアップ型」に落ち着く、ということで、結局、ルールとボトムアップの間で四苦八苦を繰り返しているように見える。こうしてみると、なんだか、金融規制(ルールベースとプリンシプルベースの善し悪し)の議論と似ているような印象も受ける。

監督交代論は、上記だけではなく、その他複合的な問題も絡み、すぐに答えはでない。特に人材不足の問題は深刻である(監督のライセンス縛りが厳格であるとか、日本人選手は欧州のトップリーグでトップ監督から最先端の戦術指導を受けており、代表監督もそのレベルが期待されるが、有能な外国人監督はフィーの問題で日本にこないとか、仮に来ても戦術うんぬんの前に日本人の特性・気質とマッチしないといった類である)

監督論(マネジメント論)はどこの世界も簡単ではない。ただ、一ファンとしては、やはり「日本代表」の戦いに憧れがあり、どこぞのスポーツのように、欧州などのトップリーグで活躍することが重要であり、代表戦には呼ばれなくて結構である、という風潮には絶対になってほしくない。「代表、代表選は憧れの場」、それが全ての根底にある上で、監督論を議論して欲しいものである。