2021/07/16 セリーナの威厳
BH
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(夏目漱石「草枕」から)とは,いつの時代にあっても,「私」を殺して「世間」と折り合いをつけながら生きざるを得ない人間の胸中の諦念をいい得た真理である。
先だって,テニスの2021年度全仏オープン開催中、大阪なおみ選手が権力者ら(大会主催者,マスコミ人ら)に抗し,試合後の公式記者会見を拒否する旨宣言したものの,結局,権力者ら四囲の圧力に屈し,大会を棄権するという後味の悪い事件が起きた。
大阪選手の記者会見ボイコット事件は,「私」が「世間」と折り合いをつけて生きることがいかに厄介であるかを改めて考えさせるものであった。大概の人々は,人類が何万年(生物歴でいえば何億年)もの生き残りを賭けた戦いの過程で獲得し,DNAに刻み込ませた「傷つく前に諦める」という生存の知恵の働きにより,殊更に意識することなく世間と折り合い,深刻な葛藤に陥ることはない。しかし,そのように生きられない繊細な人もいるのであり,大阪選手はその一人であることを自ら公にした。
大阪選手の発言は大会関係者らのほか,現役有力選手,レジェントとなった有名人らの発言が飛び交う大騒動に発展した。これらの発言は,ほぼすべてが大阪選手に対する同情や大会運営とマスコミの在り方の問題点に言及した上で,一様にテニス選手としての大阪選手の社会的責任感の欠如を,強弱はあれ指摘し,批判するものであった。ところが,騒動の最中にあって,ただ一人の選手が間髪を入れず,大阪選手の存在そのものを丸ごと認め,その行動を支持する声を上げた。あのセリーナ選手である。彼女は,「人は全部違う。問題の対処の仕方も人それぞれであり,自分が最善と考える方法で対処するしかない。なおみはベストを尽くしている。」との趣旨の声明を発した。「私」内の事情で「世間」との葛藤に苦しんでいる大阪選手を,無条件で,ごちゃごちゃ言わず,断固丸ごと受けとめ,肯定したのである。そうして,大阪選手がより高いレベルの強い選手になることを祈ったのである。セリーナ選手を表面的にしか知らなかった私には,騒動の真っただ中にドカンと打ち込まれたこの声明は,意外であり驚きであったが,彼女の内から湧きあがる人間としての品格というか威厳に接した思いで,深い感銘を受けた。
さて,大阪選手はオリンピック東京大会にエントリーしているとのことであり,私は,彼女が何とか世間と折り合いをつけられたかなと安堵するとともに,メダルなどどうでもよいから,元気一杯にコートで躍動する姿を見せて欲しいと祈っている。その一方で,母の祖国で開催のオリンピック出場を最後にテニスコートから去る,なんてことはないだろうなというかすかな心配は消えない。純粋で繊細な,良心の化身を思わせる彼女にとって,今後とも「私」と「世間」との折り合いは難しいと思われるが,大事なのはかけがえのない「私」であり,「世間」なんてものは大概つまらないもので詰まっているのであるから,冒頭のつぶやきのように,軽妙に受け流し,かつてのセリーナ選手のように誰も寄せ付けないテニスコートの女王になってほしいと願っている。