2024/06/10 コンプライアンスが導く未来
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少し前、昭和から令和にタイムスリップした昭和の価値観全開の男性が、令和の人間に物申す様を描いたドラマが話題になった。これに触発されたのか、最近はバラエティー番組でも、昭和では当たり前であった習慣などを若い世代に説明して驚いてもらう(ドン引きしてもらう?)番組がちょっとしたブームになっているようである。
昭和ではなく平成初期ではあるものの、私は保守的な九州で高校までを過ごし、さらに高校2年のときにケガで引退するまでバリバリの体育会系の部活に所属していたことから、とんでもエピソードには事欠かない。言える範囲で実例を挙げると、当然のことながら部活内の先輩後輩間には厳格な上下関係があり、後輩は「付き人」に近い役割が与えられ、先輩から指示された買い物、先輩の部活道具の管理等を行っていた。指導者も厳しく、部員が何か問題を起こした場合には、指導者から戦慄するような「指導」が加えられた。指導者や大多数の教員は、問題を起こした生徒にそのような指導を加えることに問題があるとは考えていなかったし、生徒、そしてその保護者も同様であった(教員らからそのような指導を受けた場合、生徒は、苦情を言うどころかむしろ武勇伝のように誇らしく語ってさえいた。)。未成年の飲酒も今とは比べものにならないほど寛容であり、大学に入って急に先輩から飲まされると大変だからという理由で、保護者や指導者がいる中で少量飲酒する程度であればむしろ推奨する指導者さえいた。
昔を振り返ると、ときに過剰とも思える現代のコンプラ事情には息苦しさを感じることもあるが、コンプライアンス、少し大袈裟に言い換えると正義の実現とこの息苦しさはトレードオフの関係にあるともいえる(ここでいう「コンプライアンス」は、法令のみならず、広く社会規範の遵守をも含む概念を指す。その意味で「法令等遵守」と訳されるべきものといえる。)。正義の実現にはコストがかかり、そのコストがこの息苦しさなのであれば、受け入れる必要があるコストなのであろう。
ただ、次から次に新しいハラスメント概念が生まれ、コンプラ違反を指摘するクレームに翻弄される企業の姿を見ると、この先さらにコンプライアンスに関する様々な観念が極端な形で徹底されていった場合、例えば100年後の社会はどのようなものになっているのだろうか、とふと思う。今より住みやすく、誇れるような社会になっているのだろうか、それとも無味乾燥で退屈な社会になっているのだろうか。 コンプライアンスは、その概念の抽象性から毒にも薬にもなる概念である。コンプライアンス違反を主張する場合には、相応の責任を伴うことを自覚する必要があろう。