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2019/06/18 バトンパス

M.M

  東京オリンピックまで1年となり,メダルを狙える種目は何かをめぐる論議もかまびすしいこの頃である。私は,オリンピックの歴史で花形となるのは陸上競技だと思っているが,個人の力を競う種目であり,日本選手にはオリンピックの舞台で個人の力を競うには残念ながら限界があるようである。しかし,苦手な陸上競技にあっても,個人競技と団体競技を組み合わせた種目であるリレー種目,特に距離の短い男子400メートルリレーは,過去にメダルを取った実績がある上,来年のオリンピックでもメダルへの現実的な希望があり,期待を抱かせる。個人の走力をバトンパスという団体作業を介在させて繋ぎ合わせ,メダルを狙うのであるが,距離が短いとバトンパスが技術を要するようで,ここを訓練して円滑に行えると,個人の走力では到底敵わないはずの強豪国に勝つことができるという私には摩訶不思議に思える競技である。



  さて,これを理屈っぽい話しに転じて恐縮であるが,私は,職業人として最終盤にあるところ,わずかな訴訟事件や相談事件を処理する過程で,裁判官や相手方代理人と対峙するとき,どうにも受容しかねる違和感を覚えることが多い。むろん,その実は,若い時代にも経験した「見解の相違」として処理される事象と大差ないものが,現役舞台からの退場を促されている今,個人的に覚える寂しさのようなものかもしれない。言い換えれば,時代が,「先輩,お先に失礼します」と自分を追い越して行くのを実感する寂寥感のようなものかもしれない。しかしながら,そう思う一方で,「おう,ご苦労さん。どうぞ,頑張ってください」と応答するだけでは済ませられない,未消化な何かが残るのである。



  浅田次郎著の「黒書院の六兵衛」という小説(初出は日経新聞の連載小説)があるが,これは江戸城無血開城の架空の裏話しで,勝海舟が西郷隆盛に約束した江戸城無血明渡し期日が迫る中で,正体不明の幕府の忠臣に変身した徳川時代そのものが城内に居座って梃でも動かないため,無血開城の建前上切り殺すこともできず,これを追い出すのに翻弄されるという話しである。物語は,やがてその忠臣すなわち徳川時代が明治というか欧米近代に追い立てられ,遂に抗しきれず,席を譲るのを受け容れざるを得ないことを悟り,ある日従容として江戸城から立ち去っていく結末となるのであるが,そういう感覚に共感するところが私にあるのであろう。おそらく,かの徳川時代は,来るべき新時代に渡すべきバトンがあるのか,あるいは,渡したいバトンがきちんと渡されるのかを見極めようとして,我が居城であった江戸城内を彷徨ったのであろう。



  ところで,私は,上述のとおり,なお法律実務家としてわずかな件数ではあるけれど,民事紛争の代理人として地裁や家裁に出向いたり,相手方や関係者との折衝に当たったりして,苦労ばかりしている。その折,特に,裁判や調停の手続きの在り方に疑問を覚えることが少なくない。古い法曹の繰り言にすぎないといわれてしまうと,発言の気力も失せるのであるが,要するに,民事であれ家事であれ,司法手続は個別紛争の解決を目的としているはずであるのに,紛争を構成している核となる個別事情がきちんと把握されず,そこをあいまいにしたまま一般論ないし一般的基準で処理が急がれる傾向が顕著になっているように思われるのである。今日風に言い換えれば,AI裁判あるいはIT裁判への移行を急ぐ過程にあるともいえるであろうか。迅速性ばかりが強調され,司法手続における最上位の行為規範となり,紛争の個別性を軽視し,一般論で決着を図る傾向が強まっているのを否定できないように感じるのである。



  人間社会の営みは,いつの時代,いずれの分野であれ,旧時代から新時代へのバトンパスを繰り返して成り立っている。その結果が進歩,向上をもたらすか,停滞,破綻に至るか,いろいろであり,いずれもが繰り返されてきた。司法の分野においても,似たようなものであり,それゆえに個別の紛争の特性を正確に把握する審理を行い,判断をするという本来の司法手続をバトンに託して,これをきちんと次世代にパスしてほしいと願い,そのために自分にできることがあれば,残された微力を投じようと思っているところである。