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2015/04/16 人間の尊厳を全うして

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  私は,昨年9月,母を亡くした。93歳であったから,世間的には天寿を全うしたといえるのであろう。晩年の母は認知症を患い,郷里の山口市郊外にある認知症患者を対象とする有料老人養護施設に入所して世話を受けていた。母が認知症に罹患した経緯は,86歳の秋,来襲が予報されていた台風に備え,夜半家の周囲を点検して回っている際に転倒して背骨を骨折してしまい,半年近く寝たきりの入院治療生活を余儀なくされ,骨折は治癒したものの,認知症を発症してしまったというものである。私は,できるだけ時間を作っては帰省し,施設に母を見舞っていたが,その頃の施設の情景が今も時折脳裏に浮かぶ。その一端を紹介し,人間の尊厳とは何か,生きるとはどんなことなのか,超高齢化社会に驀進している日本社会は必然的に認知症患者も激増するであろうに,その人たちが一体どんな扱いを受ける社会になっていくのであろうか,そんなことについて皆さんにも少し考えてもらおうと思って,筆を執ってみた。

  施設には,当時18名の入居者がおり,満室であった。平均年齢は90歳を超えている。このうち,男は1人だけ。男は,認知症に罹患してもなお逞しく生き抜くまでの生命力を持ち合わせていないようである。施設はゆったりと2棟に区分され,入居者18名は,9人ずつに分けられて生活している。母がいたグループは,上の男性が入っており,総勢9人がほぼ日がな一日,体力的に可能な人は食卓用の椅子に座ってというか座らされて,大広間のテーブルに着いて,3度の食事をし,おやつを食べたりして過ごすのである。そのおおまかな様子は次のようである。

  まず,私の母は,健常時は社交性もあり,活発で行動的な人であったが,認知症の発症,進行とともに積極性が失せ,よくいえば温和で寡黙になっていった上に,亡くなる5か月くらい前に施設内で転倒し大腿骨を骨折してからは体力の衰退が著しく,それとともにほとんどしゃべらなくなり,不自然に傾いた姿勢で椅子に座ったまま居眠りをしているようになった。それでも,食事時や,おやつ時には起きて,黙々と食物を口に運ぶ。しかし,実に,まことに超のろい。箸は何とか使えるが,スプーンも使う。入所者の大方がそうであるように,食べ物はポロポロこぼす。それでも,一生懸命,食べる。まるで,命を賭しているかのような様で,食べる。

  母の対面の席のSさんは,91歳で認知症は母よりだいぶ軽いが,それでも健常者と対比すると完全に呆けている。Sさんは,私がよく知っている町の出身であることから,私が昔の話しを向けると目を輝かせ身を乗り出して,まったくもってとんちんかんな会話を楽しげにする。

  Sさんの隣は,唯一の男性のTさんで,86歳である。ここでは最年少の若さである。Tさんは軽度の認知症と脳血管系の疾患からか手足の機能に著しい支障を来している。食事を摂るのは一大事であり,割合自由の利く右手に茶碗や皿等を抱え,不自由な左手で食物を取り,顔ごと口を近づけ何とかして食物を口に入れて喰らおうと必死である。もちろんできる限り介護はしない。初めてその様子を目の当たりした頃は,見ている方にも力が入って疲れたものであるが,やがてそうした光景にも馴れ,日常のものとなった。Tさんは,全く何もしゃべらない。一日中腕を組んだ状態で黙然と座っているだけである。

  その隣は,90歳のKさんで,教員をしていたそうである。Kさんも認知症に罹患しているが,比較的軽く,まだ顔に表情がある。9人のうち,表情のあるのはこのKさんともう一人最年長94歳のPさんだけである。Pさんは,自力歩行はできないが,にこやかにまともそうに会話ができるのである。

  Kさんの隣の席がOさんで,88歳の進行した認知症。体力はありそうで,一日中椅子にきちんと腰かけ,ぶつぶつ何か言っている。特徴は手であり,右手のひらでテーブルをひっきりなしにバンバン叩くので,うるさい。最初は,Oさんの言動にも驚いたものである。入居者にも騒音のようであり,なぜか大方は気にならないようで皆無反応であるが,Sさんだけが時折「うるさい!」と怒鳴る。むろん,Oさんは全く意に介さず,テーブルを叩き続ける。すると,介護士がさっとOさんの席に行き,「Oさん,この上で叩きましょうね。Sさんがうるさいと怒ってるよ」などと言って,薄手の座布団様の布をOさんの手が振り下ろされる範囲のテーブル上に敷く(この布はそのために用意してあるようである)のであるが,Oさんは布が敷かれたことに気づかず,その上を数度叩くうちに,音がしなくなったことに気付き,何か喚き声を上げて座布団を押しのけ,一瞬の後にはまたテーブルを直に叩き始めるのである。かなりな力で叩いているので,手が痛くならないのだろうかと不思議である。それでも一時間もすると疲れて,テーブル叩きは終了する。そして,しばらく休憩すると,力がみなぎってくると再開である。これが繰り返されるのである。Oさんは,日本人形の躯体製造職人であったそうである。

  その隣は,Yさんで,認知症の87歳。この方は,完全に呆けているが,比較的若いからか体力があり,いつ訪問したときでも,唱歌「ふるさと」を力いっぱい歌っている。その様子から,Yさんは一日中「ふるさと」を繰り返し歌っているのではないかと私は推測したものである。ややしゃがれたアルトで,「うーさーぎおーいしかのやま、こーぶーなーつーりしかーのうかわ」と一番だけを,まあまあの音程で何度も何度も壊れたレコードのように1時間くらいは歌い続けるのである。

  その隣がMさんで,90歳の認知症。いつも背筋をぴんと伸ばし,手を膝において端然と座っている。寡黙で,いかにも上品そうである。Mさんは,突然,Yさんに唱和して「ふるさと」を歌い出すのである。私は,どうもYさんを知っているのではないかと思っていた。Mさんは,突然ニカーと笑って,私に手を振るので,完全に呆けていることを知り,どこで知己を得たか判明は不可能であった。Mさんは,元気であったが,昨年の初夏頃から急に体調を崩され,ほとんど寝たきりの状態になってしまった。母が亡くなった秋口には,それでも寝た状態で大広間に出て来ていたが,認知症なりの他者との交流も,もう全くできない状態になっていた。おそらく,もう亡くなっているだろう。

  私は,最初,以上のような光景を目の当たりにしたときは,ぎょっとした。まだその時点では,母は自力歩行し,排泄も大方は自力処理でき,表情もあり,よくしゃべっていたので,上の光景の中に母をはめ込むのに非常な抵抗感が湧いたのを覚えている。しかし,数日するうちに,母は認知症患者としてごく自然に先住者の皆さんの中に溶け込んでいったのである。そして,それから3年,母は,認知症の老人仲間たちと共に,人間の最後の生き様を示しながら,体力が衰え,誤嚥によりこの世から旅立った次第である。母及び母の仲間たちは,それぞれの人生のフィナーレを晒すことによって,これが人間の尊厳だ,と強烈に訴え続けていたのである。

  世界の先進国が固唾を飲んで見守っていることであるが,先頭を切って驀進する日本の超高齢化社会の行く末はどのようなものになるのか,考えると恐ろしい。認知症の高齢者難民の増加はその必然的産物である。最近,政府は認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)なるものをぶち上げているが,そこでは「認知症の人が住み慣れた地域のよい環境で自分らしく暮らし続けることができる社会」が日本の超高齢化社会の行く末となるようである。しかし,明らかに非現実的施策である。格安ないし無料の公的収用施設が乱立するような社会が出現することのないように祈る。