2019/08/15 如水
WATERMAN
あれは私が司法修習生として、実務修習地だった京都に住んでいた二十数年前のこと。
弁護修習中だった私は、指導担当であるY先生の事務所に毎日通っていました。
Y先生は物静かでユーモラスな中年の弁護士でしたが、中国の古典に造詣が深く、どこか浮世離れした仙人のような雰囲気を漂わせていました。
ある日の昼下り、Y先生の事務所で私が何をするでもなくボンヤリしていると、すぐ近くのデスクに座って、ハイライトをくゆらせていたY先生が、目を細めて煙を見上げながら、何の前触れもなく、
「あなたを見ていると、上善水の如し(じょうぜんみずのごとし)という言葉を思い出します。」
と言い出しました。
Y先生曰く。
「あなたを見ていると、あなたには『こうしよう。』とか、『ああしたい。』とか、そういう自分の意思とか意欲とか希望が全くない。
これまでの人生も(注:Y先生は、指導担当の立場で、私の履歴書を読んで経歴等を知っていました。)、何となく司法試験を受けて、奇跡的に合格して、何でかよく分からんけど、京都で司法修習をしてはる。
全部、偶然任せの人生や。ただただ、流されてるだけや。
あなたは、ほンまに、お水のようなお人です。」
出し抜けにそんなことを言われ、普段は鈍い私もさすがに耳を疑いました。
「ちょっと待って。今のは何?
大人しく聞いてれば、意思がない?運任せ?流されてるだけ?
ええ、おっしゃるとおりです。間違いございませんとも。
でも、自分でも分かってるけど、改めて他人に言われるとムカッと来ることって、ありますよね?
大体、京都の人って、もうちょっと本人が分からないように嫌味を言うんじゃなかったでしたっけ?
それとも、これが和歌山流?(注:Y先生は和歌山出身)
自分なんか、どうせ『水』ですよ、流れっぱなしですよ、悪かったですね。
しかし、ここまで言われて黙ってボケーッとしてたのでは、ますますアホだと思われてしまう。
さすがに何か言い返さないと。
何か言え。言うんだ自分!」
と思った私が、「あのー、先生…」と言いかけたちょうどその時、Y先生は遠い目をしたまま、ボソッとつぶやいたのでした。
「ほンまに、わたしと一緒や………」
「???」
それを聞いた私は、とっさに何と言い返せばいいのか、どういうリアクションをしていいのか、頭がこんがらがってしまいました。
Y先生は、自分も他の場所から京都に流れてきた、というようなことを言いたかったのかもしれませんが、今となっては分かりません。
私はすっかり戦意を喪失して、Y先生の吐き出した紫煙が虚空に立ち昇り、無機質な事務所の壁の白さと一体になって消えていくのを、呆けた顔で見上げるしかありませんでした。
話はそれだけで、何のオチもサゲもないのですが、困ったことに、私には、「あんたは水みたいだ。」と面と向かって言われたこの件以外、実務修習についての記憶があまりありません。
ところで、「上善水の如し」。
美味しい日本酒の銘柄でもありますが、ネットによると、老子のこんなお言葉の一部だそうです。
上善如水(最上の善とは、水のようなものである)
水善利万物而不争(水は、万物を利して、何物とも争わない)
処衆人之所悪(人が避ける所にも流れる)
故幾於道(故に、道に近い)
こうしてみると、実際には、私のようなただの横着な脱力系人間には当てはまらない、非常に含蓄の深い言葉のようで、Y先生も何か勘違いをしていたんじゃなかろうかと思ってしまいます。
ただ、最近の「目的意識」とか、「先を見通す力」とか、「意識高い系」(ちょっと古いか)とか、その手のフレーズに居心地の悪さと胡散臭さを覚える人間にとって、「如水」は、少しホッとさせられるいい言葉だな、などと感じる自分は、少し疲れているのかもしれません。