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2024/07/01 自由の門戸 <チャーリー・ゲート> 見聞記

BH

かつて東西ドイツ分裂時代にベルリンを東西に隔てる壁(1961年(昭和36年)から1989年(平成元年)まで。所謂「ベルリンの壁」である。)があり,その一画にスパイ小説や映画に度々登場する著名な国境検問所である通称チェックポイント・チャーリー(表題の「チャーリー・ゲート」は本稿での適当な呼称である。)が設けられていた。この検問所は1989年11月9日のベルリンの壁崩壊まで,東ベルリン側からの自由への門戸として象徴的な検問所であった。なお、西ベルリンは、東ドイツ領土に囲まれた西ドイツの自由都市(飛び地)であった。

ベルリンの壁崩壊に象徴される東西ドイツの再統一の実現が10年に満たない明日に迫っていた当時,生身の人間の知能はこれを知リ得ず、当事者のドイツ人も再統一はおそらく朝鮮半島が統一されるよりも難しく,悲願のまま推移し、実現することはないだろうとみているのが一般的であった。

以下は、その頃のベルリンの壁とその一画の検問所にまつわる遠い昔の見聞記である。

当時,西ドイツのハンブルクからベルリンの壁で分断された東西ベルリンの様相を見聞に行くには、ハンブルク郊外から東ドイツ領土内を通って西ベルリンに至る連絡専用自動車道路(以下「連絡道路」という。)を利用するのが簡便であった。

ただし、このルート選択に問題がなかったわけではない。まず、連絡道路を利用するにはハンブルグ側に設けられた東ドイツの検問所の検問手続を経ることを要するのであるが、祝祭休暇等による西ベルリンへの訪問ラッシュに出くわすと上記検問所は長蛇の列となり,検問手続に何時間も要するので、これを知らずにのんびり出向くとひどい目に遭う。不幸なことに、この日の企図は、この点の判断を誤った上、検問手続で検問担当官(軍か警察か不明)と信じ難いもめ事を引き起こして時間を浪費する失態(内容は省く)を犯したこともあって、検問を了したのは午後もだいぶ回った時刻になってしまった。

そうして、ようやく走り始めた連絡道路は、見渡す限り何もない平原に敷設されており、信号機など交通標識と思しきものは何もなく、幅員はやけに広くて、路面はもの凄く頑丈で,印象はまるで平原の中をどこまでも続く滑走路である。冷戦時の構築道路であるから、おそらく戦時ないし緊急時には戦闘機や輸送機などの軍用機の滑走路として使用することが予定されていたのであろう。そのためか、日本で見られるような騒音遮蔽壁などむろんのこと、道路境界柵等の遮蔽物等上記道路の目的に不要な物は一切ないから,拘束され行方不明者となってもよいとの覚悟があれば、連絡道路から草原に走り込んで東ドイツ探索の寄り道をするのは自在である。また、対向車線との間には幅広い中央分離帯が設けられているが,戦闘機等の離着陸に障害になるような設備はない。通常であれば高速道路に必要不可欠の街路灯も道案内板なども一切ない。国威発揚のための国旗の掲揚なども見当たらなかった。このような道路が東ドイツ領土内の平原を貫通する一本道として西ベルリンまで延々と続いているのである。速度をいくら出そうと走行の安全自体には何の支障もないので、自由都市西ベルリンへの走行は、快適、楽勝のはずである。

ところが、ここに次の問題が潜んでいる。連絡道路には速度規制標識はないが,巷間、時速100㎞制限と聞いてはいるものの、好天に恵まれるなどして、つい良い気分で時速200kmなんて速度で快調に走行している車両は、時折連絡道路がカーブしていて見通しの悪いエリアで待ち構えている東ドイツ警察車両に捕捉され,容赦なく罰金(うろ覚えだが西ドイツの100マルク程度であったかと記憶している。円との為替比率は1マルクが80円前後であったであろうか。)を徴取されるから注意しなければならないのである。しかし、そうはいっても、上記のような道路を時速100㎞以下で走り続けるなど通常人には我慢できるものではなく、遵守は極めて困難である。そういう訳で、この取締りは東ドイツ警察にとって効率のよい外貨稼ぎ事業となっていたのである。

走行を続けるうちに、陽が落ちて夜ともなると,さしもの外貨稼ぎの仕事も終了の模様で,走行車両に対する警察その他の監視者は誰もいなくなる。そうなると,満天の星空を頂いて、闇夜の道路をハイビームにして、時速200キロ超など出しても何の問題もなく安全、快調に走行できるのだから、西ドイツのアウトバーンと意識の区分けがつかなくなり、つい超高速走行に惹かれかける。ところが,その誘惑に負けるとガソリンがガンガン減っていくので,ガス欠にでもなったら給油所などないから大変なことになるのに気付き、慌てて時速130~140キロ程度の低速に落として走る。しかし、そうはいっても、前後を見ても走行車両の灯りはなく、真っ暗闇の連絡道路を独りで走行しているのであるから、無意識のうちに段々と速度を上げながら走行するシチュエーションに陥ってしまうのは自然であり、その是正は困難である。その上、進路はこれで本当に正しいのか、どこかで枝分かれしていなかっただろうか、念のため引き返して確かめた方がよくはないか、そうでないとこのまま行方不明者として東ドイツの闇に消えていくのではないだろうかなどと妄想的不安に駆られ出すし、空腹も堪え難くなるわで(浮かぶのはなぜか各種かつ丼ばかりであった。)、ひたすら高速化を厭わず進むしかなくなるので,結局、道路端でやむなく1,2度の小休止を取るほかは、ほとんど高速ノンストップで延々と6,7時間も走り続けることになるのである。

やがて、さしもの走行もどうやら終りが近づいたのか、暗闇のトンネルから抜け出るように、進行方向彼方の空が明るくなってくるのに気付き、「おお、車よ、ベルリンの灯だ!」と安堵する。更にしばらく走ると、ようやく,西ベルリンに入る検問所(ここは,東ドイツは関与していないのであるが,初めての者はそんなことは知らないから,東ドイツの検問所であると思い込んでいる。)に到着し、停止を命じられる。闇夜の平原の中を不安におののきながら長時間走行してきた挙句に,一段と高所に設けられた検問所窓口から見下ろす検問兵の事務的な質問を受けることとなる。だが,安堵と疲労で集中力を欠いて半ば朦朧とした状態である上、聞いてはいたが本当に何てひどい訛りのドイツ語だろうと思い,全く意味不明で理解できず,何度も「パルドン」と聞き直していると,突然,「どこから来たのか?」と聞こえてくるではないか!その瞬間に,そうか,こやつ英語をしゃべっていたのかと気付くに至り、両者,大笑いとなる次第。改めて質問は何もなく、「お疲れ,心配ない、さあ行け」となって、ようやく西ベルリンに入ることができたのである。

それからウロウロしてようやくホテルを確保して一夜を明かした翌早朝、西ベルリンの域内で,先ずはベルリンの壁に近づいて見てみる。眼前に見る壁面は、20年以上にわたり、びっしりと様々な形状で叫びというかスローガンのようなものが書き記され,また絵などが余白もないほどに描き尽くされており,これに併せて、壁近くに散見される脱出失敗者を弔う十字架等(東ベルリン側の監視塔の兵士は、壁(20㎝ほどの厚さ)に穴を開けて西ベルリンに脱出を企てる者を発見すると、壁から2メートル以内であれば発砲=射殺しなければならなかったという。ただし、兵士は、脱出する同胞に銃を構えながら早く2m離れてくれと祈っていたと聞いた。)と一体となり、愚かな人間達の欲得が生み出した冷戦の残滓の象徴として、また同時に、自由への解放を叫ぶ巨大な芸術作品の西洋襖絵のごとく聳え、連なっていた。

そうなると,壁の裏側すなわち東ベルリン側の壁の様子はどうなっているか気になろうというものである。それを確認するためには、かの著名な検問所、チャーリー・ゲートを通って東ベルリンに入らなければならない。そこで、同検問所で東ベルリン滞在の時間限定ビザ(8時間)の交付を受け、東ベルリンに入るための検問を受ける。呑気に臨んだのであるが、この検問は大変真面目に行われる。検問所の屈強の兵だか警察官だかがパスポート,免許証の提示を求めるだけにとどまらず,運転する自動車のトランクはもちろん、車内の座席などもひっくり返して何か禁止物(何が禁止されているのか知る由もない。)が隠されていないか時間をかけて念入りに検査し,ようやく検問が終了し、通過OK(これは東ドイツ入国許可)が出る。この間ほとんど無言の進行なものだから、別の場所に連行され特別に取調べを受けるのではないかなどと妄想したりして、緊張感の高まりはかなりのものとなり、連行も身体検査もされなかったものの結構疲れてしまう。

ともあれ、検問を了し、愈々東ベルリンに入る。持参した市販地図(正確性は疑問)を頼りに,そろそろとアクセルを踏み込み,進行する。明るく,自由に溢れる喧噪の都市西ベルリンから,突然,何の音もないような静謐な区域の、しかも何十年もの間第二次大戦で破壊された石やレンガ造建物の瓦礫があちこちにうず高く放置されたままの街中の道路を,低速で慎重に進む。行き交う自動車も人々もほとんど見当たらず、何となく不気味な雰囲気である。ベルリンの壁の内側(東ベルリン側)に沿ったエリアには、東ドイツの復興を西側に印象付けることを意図して建築されたと聞いている新しい高層アパートが立ち並んでおり,ふと見上げると,アパートの窓のカーテンの陰から進入してきたこちらの自動車をじっと見下ろしている人影に気づく。また、路上のあちこちに、表情を消した警官が立っている。

やがて,東ベルリンの中心街に出たので、決められた駐車区域に駐車し、散策を始める。多数のソ連兵が行き交い、ロシア語がやたら耳に飛び込んでくる。広場にはそれなりに高層の大きなビルが建ち、その周囲に巨大な真紅の旗が林立しており,それは壮観である。

その界隈の印象は、色でいえば正に赤の広場である。このエリアでは行き交う人も多いが、何よりもロシア語をしゃべりながら歩く兵士、何を警戒しているのかよくわからない警察官がやたらあちこちに立っているのが目についた。警察官達は暇そうなので、試しに、持参のカメラで記念写真を撮ってくれるようその一人に頼んでみたが、予想どおり、旅行客の写真撮影のためにここにいるのではないと冷たく拒否された。

その一画は東ベルリン一の繁華街とのことで,デパートがあり,色んな店舗のショーウィンドウもあって、そこには衣類のほか,テレビなどの電気製品も商品として陳列してある。東ベルリンでは最新とされる品物を陳列しているものであろうが,購買意欲の湧く品物は見当たらない。テレビなどは小型のブラウン管の白黒画像のもので、日本ではもはやお目にかかれない代物であるが,値段は東ドイツの労働者の年間賃金くらいかかる高額なものであるという。また、陳列商品ではないが、自動車(東ドイツ製)も購入できるが、これは更に高額な上、注文してから取得できるまで1年程度はかかるとのことであった。

さて,昼時分となったので,一番目立つレストラン(だだっ広い体育館のような空間に簡素なテーブルとイスを配置しただけの大食堂といった様相)に入る。検問所で,強制的に西ドイツ100マルクを東ドイツ100マルクに交換させられるのであるが,東ドイツマルクなど東ドイツ以外では通貨価値がないから,手にある東ドイツ100マルクは同国内で使い切らないと無価値な記念品となるだけである。要するに,西ドイツ100マルクを入国税として強制徴収されたのである。土産物屋を物色しても買いたい品物もないので、せめて美味いものでも食べて消費しようかと,少ないメニューの中から値段の高い料理を選んで注文する。暖かいスープ,ソーセージ,パンその他である。しかし,一口食べるも,まずい!何だこれは!スープに味はなく、ソーセージは練粉で固めた弾力などないソーセージもどきで食えたものではなく、金を払って食う物か!と放り出す。ところがである、ふと,斜め向かいに背筋を伸ばして座っている若い女性が、スープだけ注文し,バッグ(持参の布袋)から,油紙のような紙にくるんだ見るからに硬そうな食べ齧りのパンの塊を取り出し,そいつを引きちぎって(凄い力でないと無理そう)これをスープに浸しては食べている姿が目に飛び込んできたのである。そうなると,こんなもの食えるかと手を付けずに出ようとした己を恥じる。座り直して、いったん放棄した先の料理の皿に向き合う。むろん毒ではないから,決意すれば全部食べられ、何とか完食する。そこはかとなく漂う共産圏の雰囲気その他諸々の目に見えない要素も料理の味に加わったような感覚に陥り、東ベルリンのレストランの昼食を堪能することができた。

こうして腹を満たした後、観光客らしくできるだけリラックスして歩き、数名の旅行者らしき散策者を目にとめながら、ベルリンの壁の構築により東ドイツ側に取り込まれて位置することになったブランデンブルク門付近まで行き、ついにベルリンの壁の東ドイツ側壁面を目にすることができた。壁際に設置された高い監視塔には銃を持った兵が詰めて監視怠りない様子が視野から離れず,下手に壁に近づくと撃たれそうな雰囲気をひしひしと感じるような気がして、100メートル以上は離れた辺りから眺める。それでも、ベルリンの壁の東側壁面は全面真っ白であるのが鮮明に認識できた。見渡す限り、落書きなど一切ない。それはそうだろう、言動に自由のない東ドイツ国民が生命の危険を賭してそんな行動を取るはずはないし、東ベルリンに入った西側のビジネスマンや観光客等も下手に壁に近づこうものなら撃たれる危険を感じるであろうから、落書き等の行為に及ぶなどあり得ないのである。わずか20㎝程度しかない壁の東西両面の余りの違いに複雑な衝撃を受けながら、まだ時間はだいぶあるので、範囲を広げて東ベルリンを見聞することにし、自動車に戻って走行を再開する。

運転しながら目に映る東ベルリンの街の景色は、少し入ると西側圏に見るような商業ビルなどがないからだけではなく、全体が西側都市では失われてしまった自然の中にある町、つまり西側の古の田舎の雰囲気に包まれており、心身が落ち着く。途中、大学があり,停車してしばらく眺めてみたが、多くの大学生と思われる若者達が明るく楽しそうに歓談,交遊している様を目にすることができた。西側諸国と異なり、自由のない国家の中で育つ彼らにどんな将来,希望があるのだろうか、何とか再統一が実現して自由な良き未来が来ればよいなと願いながら更に走り続けると、いつの間にか舗装路は消失し,土の道路となり、家並みも途切れてくる。通過してきた道を見失わないように、できる限り一本道を走るようにするが、随分走っても次の町は見えず,やがて軍の基地が現れてきたりして、急に根拠のない不安に襲われ、時間も経っていたので、それ以上の進行は危険だと体内センサーが働き、持参の地図を見るが現在地を確認できないまま、大慌てでともかく来た道をUターンして,ひたすら戻る。

ビザの時間も残り少なくなった頃,迷うことなく東ベルリンの見覚えのある市街地に辿り着き,先ほど通ってきた大通りに入ったので,やれやれそこを曲がればチャーリー・ゲートだとほっとした。その瞬間、目に飛び込んできたのは、大通り一杯を塞ぐ戦車でも突破できそうもないほどに敷き渡された頑丈な巨大バリケードである。そこから先は走行不可能であることが一目瞭然で、これはまずいぞ,大変な事態になったと焦る。適当な迂回路を探して、チャーリー・ゲートへの道を探して走行しようとするのであるが,どこにいたのか警察官がさっと現れて,停止を求め、一方通行だと告げて進行を阻止する。いや,ビザの時間が迫っているから通してくれと言っても、ダメだと阻止される。やむなく,さらに別のう回路を探して走行するが,その都度別の警察官が現れては進行を阻まれる。何でこんなに警察官がいるのかと毒づきながらも、本当に困ったぞ、どうしようと焦りながらチャーリー・ゲートへの進路を探して動き回る。そのうちに、どこをどう走行しているのか全く分からなくなり、恐怖心が沸き上がってきたところ,最初に進行を止められた警察官の立つ場所に戻っていた。慌ててUターンしようとすると、禁止であると阻止される。もう本当に残り10分もない、このままだと拘束されて大変なことになると途方に暮れて,その旨を喚くように訴えると,何とその警察官は、「俺は向こうを向いているから,ここでUターンしてその先を直ぐに左折しろ,そうしたらゲートへの道路に出る」と言ってさっと背を向け、知らんふりをしてくれるではないか。共産圏にも危機対処能力に優れた人材もいたと、即座に「ダンケ!」と叫び、禁止であるはずのUターンをして指示通り走行したら,無事チャーリー・ゲートの目の前に出たのである。制限時間切れの数分前であり、先ほどの警察官に心中で限りない感謝を述べ、拘束の恐怖から脱した安堵に浸った。その後は、東ベルリンから西ベルリンに入るのに検問手続はなく,ほんの一時停止しただけで通過し、無事西ベルリンに戻ることができたが、通貨の瞬間、チャーリー・ゲートは自由への門戸であると実感したものである。

翌日のハンブルクへの帰路は、今回の旅行の充実感に包まれ、緊張感もなく、西ベルリンでガソリンを満タンにして、文字通り一本道の連絡道路を快調に走行することになる。すると、つい気が緩み、いつの間にか時速200km前後くらいで走行していたであろうか、どこかのゆるいカーブを過ぎたところで、突然そう遠くない前方に、先行する数台の西側自動車が東ドイツ警察官多数に囲まれて停車しているのが目に飛び込んできた。迂闊だった!マズイ!と慌てて減速を試みるが、警察官らの位置までに時速100km以下に減速することなど危険で不可能である。懸命に安全に減速を試みるも、その効果は空しく、傍らに警察官らを認めながら時速100kmを優に超過する速度で通過してしまった。その上、通過しながらルームミラーを見れば、警察官の中にこちらを指さして何か叫んでいるらしき者がいる。まずい状況になった、罰金は仕方ないかと狼狽しながら、かなり通り過ぎたが、逃げ切れるものではないから(自動車の性能比較でいえば、東ドイツの警察車両は時速100kmも出せば、煙を吐く有様なので、楽勝で引き離せるが、無線で手配され、あるいは銃で撃たれるかもしれず、逃げ切るのは不可能である。)、咄嗟に閃いた危機回避策に打って出ることとし、相当に減速していたので何とかブレーキを強く踏み込んで停止し、降車するや警察官らのところまでかなりの距離を息せき切って駆け戻り、間髪入れずに、「道に迷っている。ハンブルクはどう行けばよいのだろうか?」と問いかけみたのである。そして、そこには幸運が漂っていた。つまり、まだ罰金徴収手続が終わっておらず(捕まった数台の運転手達が東ドイツ警察官達に激しく抗議してしばらくは収まりそうもない状態であった。)、通過車両に注意が向いていなかったのか、道を尋ねに戻ってきた違反者に誠意を認めてくれたのかどうなのか不明であるが、一人の警察官が、にやりとこちらを見て、黙って一本道のハンブルクの方向を指差してくれたのである。「ダンケ」と礼を言うや、急いで止めた自動車まで駆け戻り、飛び乗り発車し、ルームミラーから警察官達の姿が完全に消えるまで時速100km程度でバンブルクを目指して走行した。

先ほどのUターン禁止を無視して走路を与えてくれた警察官といい、一本道の連絡道路の先にハンブルクがあるのだと指し示してくれた警察官といい、東ドイツの警察官にも柔軟でユーモアがあって臨機の対応ができる有能な人材はいるものだと東ドイツの将来に希望を見る思いがしたのであった。

自由の門戸<チャーリー・ゲート>の解放は、自由を求める願望がうねりとなって他の共産圏に伝播し、共産圏の人々のみならず、広く世界中の人々に自由で平和な国際社会が次々と形成されていくのではないかとの夢を与えてくれた。

しかし、それからわずか30年余りの間、科学技術は人間の想像を超える驚異的な発展を遂げ、その極めつきの成果物であるAI(人工知能)が人間を翻弄するまでに至っている一方で、自由で平和な国家が陸続として誕生するであろうとの夢は、いつの間にか雲散霧消し、帝国主義、覇権主義への逆爆走をしつつ成長した2大国が、未成熟の中小国を傘下に従えて世界を席巻せんばかりになっており、これらが一体の脅威となって作用し、人類の存続を脅かす状況を生みだしている。

この脅威は、所与の人類の寿命を既に何千年も縮めてしまっており、その終期がついそこにまで迫っているかもしれないのに、人間知能ではこれを具体的に把握できない。一考であるが、驚異的発展を続けているAIであれば、今この時点で、人類の終焉の時期、態様を科学的客観性の裏付けを示して明らかにしてくれるのではないだろうか。もっとも、その検討結果が人類の救いになるものかどうかは公表されてみないとわからないし、正直あまり知りたくもないが、絶望ばかりではなく、希望の光が射すかもしれない。 長くなってしまったが、人間の懲りない(さが)により形成される現在とそこのみを母胎として生れくる将来に思いを馳せながら、かつて、自由の門戸<チャーリー・ゲート>を見聞して人間達の将来に確かな希望を抱いたことを複雑な思いで振り返り、昔日の紀行を書いてみたものである。