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2020/09/16 近頃身近で起こること

代表社員 弁護士 庄 司 克 也

1.憲法は,国家の統治機構を定める根本ルールであり,わが国には日本国憲法という成文憲法が存在する。日本国憲法は,近代立憲主義の核心とされる「個人の自由と尊厳の保障」を掲げ,国家権力の濫用によりこれが侵害されることを防止するため基本的人権の保障と権力分立制の採用を規定する。




2.このうち「基本的人権」は,国民の自由と尊厳を構成する本質的なものを「国民の権利」として具体化したもので,「個人としての尊重」「生命・自由・幸福追求に対する権利」「法の下の平等」「思想・良心の自由」「信教の自由」「学問の自由」「集会・結社の自由」「言論,出版その他一切の表現の自由」「居住,移転の自由」「外国移住・国籍離脱の自由」「職業選択の自由」「財産権の保障」「通信の秘密」「住居等の不可侵」,「奴隷的拘束・苦役からの自由」「法的手続の保障」「不法な逮捕,抑留,拘禁からの自由」「拷問・残虐な刑罰の禁止」「刑事裁判手続上の保障」「裁判を受ける権利」「公の賠償請求権」「刑事補償請求権」「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」「教育を受ける権利」「勤労の権利」「労働基本権」「参政権」「請願権」を定める。




3.国は基本的人権を尊重し,不当に侵害してはならない。国がこれを侵害する典型的な態様は人権規制立法(法律の制定)である。人権を規制する法律が憲法に違反するものでないかどうかは,最終的に司法により判断され,違憲判断が下されれば侵害状態が回復される。司法は,ある法律が合憲であるかどうかの判断を行うにあたり,様々な「判断基準」を駆使するが,基本的人権のうち表現の自由に代表される精神的自由権に対する規制の合憲性の判断は,そうでない,例えば経済的自由権に対する規制の判断に比べ,より厳格に判断されなければならないと考えられている。「二重の基準」と呼ばれるものである。その所以は「経済的自由に対する不当な規制立法が作られても,『投票箱と民主制の過程』に訴えて,つまり選挙なり議会なり代表民主政の機構を通じて,それを排除することができる,その限り裁判所は立法府の裁量を広汎に認めることも許される,のに対して,表現の自由を中心とする精神的自由を不当に規制する立法がつくられると,民主的な政治過程そのものの機能が阻害され,もしくは破壊されてしまうので,それを改廃するには裁判所が積極的に介入し,厳格に審査しなければならなくなる。その意味で精神的自由は政治組織の基本である代議制自治の政治過程と特別な関係にある」からとされる(芦部信義「演習憲法」より)。表現の自由は,国家権力の暴走を阻止し,権力を是正するための根幹をなす権利であり,その意味で,表現の自由に代表される精神的自由権は,経済的自由権に比して「優越的な地位」にある…より厳格に保障されなければならない…とされるのである。




4.そのような表現の自由に関する合憲性判断基準として「過度に広範なゆえに無効の法理」「より制限的でない他の選択しうる手段の法理」「明白かつ現在の危険の法理」「明確性の法理」等が創造されている。合憲性の判定基準について憲法は「公共の福祉」という言葉以外には特に何も示していないのであって,これらの具体的な判断基準は先人たちの英知の結果である。例えば「明確性の法理」は「漠然性ゆえに無効の法理」とも称される。規制立法の法文構成は「表現行為に対する委縮効果を最小限にすべく,特に明確性が厳格に要求され,漠然不明確な表現規制立法は原則として文面上違憲無効とされなければならない」(佐藤幸治「日本国憲法」259頁)というもので「通常の判断能力を有する一般人の理解において,具体的な場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準がよみとれるかどうか」を問うものである。要するに何がどう規制されるのかわかないような法律は,表現活動の萎縮をもたらすことから,それ自体憲法に違反して無効とされるのである。




5.全てのルールは,これに拘束され不自由な思いをする者が,「しかし,それを守る」という自律的・理性的な意思があって初めて成り立つものである。国家権力(それを掌握する少数権力者)から見れば,ときとして憲法は「邪魔で,煩わしいもの」となる。「都合の良い法律」を制定したり「憲法自体を改正してしまう」こともある。そのような手順を踏むことすらせず何かをしたからと言って所詮は「人が作るルール」でしかないから「天罰」が下る訳でもない。また,国家のありようは様々で,憲法自体も様々である。特定の政治思想の確立,そのための中央集権的・権力集中的国家体制等が第一義的な価値とされ,個人の尊厳の最大限の保障や権力分立制という理念が否定ないし後退している「憲法」も存在する。従って,何をもって憲法に違反すると言うか,我が国と彼の国では,そのこと自体が,まったく異なることになる。しかし「個人の自由と尊厳の保障」を是とするのであるならば,国家権力の行使を監視するための表現の自由がかけがえのないものであることは疑いの無いことであって,国民としてこれを侵害してくるような国家の行動には,それがどんな名目によるものであっても,批判的に検討しなければならないし,片や,憲法を守る意思の足らざる者は,為政者としての資質を欠くということである。