2017/11/15 首席で卒業
BOBCAT
以前から不思議に思っていることですが、「〇〇氏は△△大学(東の方の某一流国立大学や某有名私立大学など)の法学部を首席で卒業した秀才である」などと報じられたり、著作の宣伝にうやうやしく記載されたりしているのを見たり聞いたりすることがよくあります。確かにさぞかし頭がよくて優秀なんでしょうが、あれって、ご本人を含めて、なんでそんなことがわかるんですかねえ。ひょっとして、世間の多くの(普通の)大学では、大学当局が、公式に首席者(や次席者以降も?)を判定して、親切(おせっかい?)にも通知したり発表したりしてくれるのでしょうか。
でも、そもそも、誰が、どういう基準で、どうやって、数百人の学生の中から首席者を判定するのですかねえ。
これがアメリカの陸軍士官学校や海軍士官学校のように、全員がすべて同じ科目を受講させられて科目選択の余地がないところ(この点は確認したわけではないのですが、士官学校としての性格上、きっとそうだと思います)であれば、首席者の判定が可能であるのも理解できなくもないです。
全員がすべて同じ科目を受講するのですから、各科目の成績を何らかの基準によって点数化しその平均点なり合計点なりを算出すれば、その大小によって各人の順位付けは(一応は)可能だからです。体操の個人総合や陸上競技の十種競技のようなものです。
また、軍の士官学校という性格上、学生相互間での競争心をあおるという観点からは、何らかの順位付けが必要となるのも当然といえるでしょう。
しかし、日本の一般の大学では、学生に受講科目選択の自由があり、学生一人ひとりが、受講する科目の内わけと総数を自由に(テキトーに?)選択しているはずです。そのようなところでは、各人の科目毎の成績の平均点または総点数の大小や、あるいは合計取得単位数の多寡を比較しても、順位の付けようがなく、たとえ無理やり順位を付けてみたところで、ナンセンスでしょう。A選手の110メートルハードルと棒高跳びと走り幅跳びの総得点と、B選手の1500メートルとやり投げと円盤投げの総得点の比較で、どちらがアスリートとして優秀かを決めるようなものです。
特に、今から数十年前に私が在籍していた西の方の某大学の法学部では、必修科目という制度がなかったこともあり(当然、学科なるものもありません)、各学生が、自分の学力と意欲と興味と時間(時間に関しては、週にどれだけ授業に出るかという観点と、何年かけて卒業するか、つまり卒業に必要な単位数を何年間で確保するかという観点の2つの観点があります)に合わせて、好きな科目を、好きな年度に、好きな数だけ選べばよいことになっていました。その結果、法学部でありながら、政治系科目と(経済学部で開講されている)経済系科目だけで卒業に必要な単位数を充足させ、法律系科目の単位を一つも取らないで卒業するなんてことも可能でした。
そんなところでしたから、誰も自分の序列だとか順位だとかは考えたこともないし、当然、大学当局による順位の通知や発表などありうるはずもなく、誰それが首席であるとかないとかなんてまったく話の端にも上らないのです。三回生の時にS教授の憲法で70点、M教授の民法で75点を取った学生と、四回生の時にK教授の国際政治学で85点、H教授の経済原論で80点を取った学生について、点数で序列を決めても意味がないでしょう。あるいは、4年間で卒業するのに必要なギリギリの数しか単位を取得しなかった学生と、5年かけて大きくおつりがくるほどの単位数を取得した学生とでは後者の方が優秀であるともいえないでしょう。
なお、そもそも年度始めにおける受講科目の登録という制度がなく、ただ二月の期末試験でその科目の試験を受けて合格すれば、単位がもらえました。だから、同じ曜日の同じ時間帯に開講されていた科目であっても、試験を受けて合格点を取りさえすれば、両方の科目の単位を取得することも可能でした(よその大学の人にこの話をすると、たいていあきれられます)。
こと、学生に勉強を「教えてくれない」ことに関しては、定評のある大学でした。つくづくよい大学だったなあと思う次第です。
今も変わっていないとよいけれど。